農作業を始めるにあたって・・・
「tanoshikuhatarakuの日記」というブログを社員が開設させた
1週間ほど前のことである。
若干 殺風景な気がしないでもないが スタート時はこんなもんだろう。
それを良くするも悪くなるも 書き手側の情熱しだいである。
このブログの開設にあたり 社員といくつかの約束をした。
まずは、企業にへつらうことなく 自分の思いを書けば良い (但し、個人的な政治信条や宗教・その他押し付け的なことは書かない。また個人攻撃はいかなる者にもしないなど・・・・・)
それ以外は、本当に好き勝手に書けば良いと思い・また伝えている。
「前田さんが書かはったから、次は塩谷さんですよ」ともうひとりの社員から云われていたが、マイブログ「徒然なるままに」もままならないのに・・・と抵抗ではなく、すっかり忘れていた。
再度のお叱りを受け、いつもどおりくどくどとイントロを書きながら
本題を探している。
畑で出火したことも 他に書いたので重複するので止め
ひとりの社員が 病気の後遺症で身障手帳を持つことは 前回本人が書いたし
なぜそういう社員を雇ったかも 「徒然なるままに」に掲載した。
FBも含め、いろんなところに書いているので 正直ネタ切れ感はある。
そうだ! 私と畑・農作業について、短く記そう
私は学生時代 おふくろの父親の郷 信州の市田によく行っていた。
目的はりんごの花の摘果である。
1ヶ月以上 本家(当時そこをそう呼んでいた)で1日1~2本のりんごの木に向かっていたが、ぜんぜん飽きなかったことを覚えている。
くる日もくる日も同じ生活が続いた。
当時私は 大学の2回生であり、以降も同じ時期には同じ生活であった。
その途中に 田んぼを耕し そして苗を植えたが 当時だから田植え機などなくすべて手で植えていた。一枚の田も区画整理などがない時代で、変形した小さいところ。
今のような大きい水田であれば、見ただけで嫌になるだろかうが・・・
食べる食材も 自給自足。 覚えているのは毎食決まって玉ねぎ料理であり
おやつには 毎回イチゴだった。
りんご園で食べたそういうものは、今もかすかに頭にある。
お肉などは、すべて農協にちょっとだけ買いに行く。
それもおばさんを乗せて、無免許で国道を走っていた。
今は 中央自動車道と連結され そんなことが全くできる交通量ではないが・・・
5月くらいになり おふくろが姉とともに車で向かいに来る。
それに乗って 名残惜しそうに京都に帰ってくる生活を毎年続けた。
まったく嫌にならないという原点が、そこにあったのかもしれない。
それからサラリーマンとして、そういう生活とは無縁だったが
阪神淡路大震災のときまで数年間 市内で貸し農園を借りていた。
震災の後、5月のゴールデンウィークまで休みなく 仮設住宅を作っていた。
だから3月の末で、契約を解除したが、ここは近くのおじさんがいろんな方に貸しておられた。それまでは京都市の家庭菜園だったが、震災の前年から 近くに借りた。
「農作業をやりたいんで、貸してもらえせんか?」 直談判である。
「あんた奥さん いはる?」 不審者に見られたんだろう。
「いますよ。なんなら呼びましょうか?」 電話で子供3人を連れてきた。
これで一般の家庭人だと 認識してもらえ、ここで遊び半分で野良仕事的ままごとなどもした。
経験のない者には やはり難しかった記憶があるが
まったく嫌ではなかった。
信州でも・家庭菜園でも・嫌だという記憶は一切ない。
これが仕事をしてゆく上では 一番でないかと思っている。
ただし、しんどいだろうなぁという思いはあるが 嫌だとは別物である。
これからは 仲間とともに、これが本職になる。
それが天職かどうか もう少し、見極めてから結論をだそうと思うが
根っからのいい加減さゆえ、なんとかなると思っている。
塩谷隆好